地面を踏みしめる
名も無き土地
どんな土地にもそこに地面がある限り深い歴史がある
それでいて 今を生きる人々は何も知らない
素知らぬ顔で人や車が動いていく
そのことに何とも言えない 本当に何とも言えない感動を憶えるのである
何があったのか知りたい
想像する 想像は自由 想像は創造
想像で創造できたら それが現実とも言える
現実とは虚構 虚構は現実
虚構の世界 それぐらいの我ままは許されるのではないか

鳥取県旧郡家町の山あいを流れる私都川。
私都川はこの福本の地で南北に大きく蛇行する。
その傍らには、因幡の白うさぎ伝説に由来する白兎神社が鎮座する。
川というものは、遥か遠くから流れてきて、そして遥か遠くに流れていく。
流域には人間の生活があり、それぞれの文化を形成し、やがてそれは統合されて文明へと昇華していく。
それでも川は、静かに、その姿を変えることなく流れていく。
その姿に悠久の歴史を感じる。
ただ、視点を変えて、水分子のようなミクロの世界では、一度たりとも同じ形を形成したことがないだろう。
人間も同じようなもの。日々細胞分裂により入れ替わるその体は、刻一刻とその姿を変容させる。
現代の人々が信奉するであろう物質世界。それでもそれは恒常不変の実態が無いものなのだ。
だからこそ、川も人間も心の表象。ただの観念なのだろうと思える。
止めどもなく流れる川
自分の心の中を悠然と流れていく

唯識思想においては、世界の認識作用を「四分説」という考え方で説明している。
心(=識)が、①見分(見るもの)、②相分(見られるもの)、③自証分(見たものを認識するもの)、④証自性分(見た自分を自覚するもの)の四つの領域に分かれる。
一方で、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』においては、人間には、「私は考える」という能力である「純粋統覚」があるから、感性で得た直感や知性で得た概念を総合することが可能となり、世界を認識することができるのだと言っている。
カントの言う純粋統覚が、四分説でいう自証分の段階にあるのか、証自証分の段階にあるのか、この辺りの詳細は、私は専門的な学者ではないからわからないし、そもそもそのような考察があるかどうかは知らない。
ただ、目の前にあるものを認識し、その認識は私の認識として自覚する自分があると言っている点は共通しているように思える。
そしてこの認識は、純粋理性批判では、客観的に存在する世界(モノ自体)をアプリオリ(先天的)に備わる悟性(知性)のカテゴリーで認識し、それは全ての人間に共通するものだとしている。
一方、唯識思想では、人人唯識、つまり、一人一人がそれぞれの異なる世界を認識しているというのだ。この考え方は、ヒューム等のイギリス経験論に近い考え方だろう。
いずれにしても、「私は考える」という一歩後ろから俯瞰している私があることは確かであるように思えるし、また、その「私は考える」が他でもない自分自身にも備わっているということ自体に驚き感動し、”ある”という不思議さ又はその神秘性を思うとき、スピノザの言う神への畏敬と感謝を感じずにはいられないのである。

思ったことつらつら。
この世界って、何で出来ていて何故出来ていて何を見ているんだろう。
そして、最大の問いは何故この世界に自分は居るのだろう。
皆目わからない。
カントの純粋理性批判だって、形而上的な問いはいくら考えても結論は出ないと言っている。
でも自分は何故だかこの世界に産まれ堕ちてしまっている。
そしてその世界ではどうにもならない生きづらさや切なさもある。
頭もよくないし、見栄えも普通。
身体能力もないし、体も強くないからバイタリティもない。
能力が無い割に負けず嫌いだし、シャイだし。
悲しいかなそのように自分は存在してしまっている。
してしまっているのである。
だけどね、どうあがいてもこの世界を自分としてしか生きていけないし、他人と比べてもどうしようもない。
「自分は大谷翔平がやる90%のことはできない。自分は最高のムーキーベッツになるだけだ。」
最近のムーキーベッツの言葉だが、今の自分にはかなりしっくり来る言葉。
社会の地位は全て相対評価だ。政治家、医者、弁護士、オリンピック選手、野球選手、将棋の棋士、サラリーマンになるにも何もかも。
自分には競争心や嫉妬心もある。どうしても人と比べてしまうからね。
だけど、相対評価やその指標となる数字だけを追いかけても、自分の真の価値を見逃してしまうのではないかな。
自分に与えられた条件(身体能力、思考能力、経済力、性格や資質等)の中で、どれだけ自分を向上させられるか。ある程度自分の器の形って決まってるんだよね。三角形の人も居るし、星形の人も居るだろう。
相対評価はモチベーションにはなるが、決してそれを目的としてはいけない。ライバルに勝った瞬間に満足して成長が止まってしまうからね。
大切なのは、人生最後の日まで「最高の自分」を目指してそれに向かって向上すること。
その際に、「何故?」という言葉は遮断すること。
これは潜在意識からの声であって理屈ではない。自分のちっぽけな頭で考える小理屈では真実は見えないだろう。
全てが因果の法則で動いているように見えるこの世の中も、自分の意識で世界は変えられると思う。
少なくとも唯識はそう教える。阿頼耶識縁起ですね。
だから日々、自分の底からの意識に従って向上し最高の自分を追い求めて行く。
そうしたら、人生の最後には最初の問いの答えも少しは見えてくるのでないか。
だからその日まで、自分を生き抜いてやろうじゃないか。
そう感じている、今日この頃。

仏教の三法印の一つ”無我”。
心臓が動いている、自分のこの意識がある。この存在は何か。
全ては様々な時間的及び空間的要素の仮和合である。だから無我なのだ。理屈としては理解できる。
ただそれは、物質(=色)的な側面で見た観点であって、この自意識も、縁起ゆえに無我であると言われても少ししっくりこない。だから、デカルトの”我思う故に我あり”なんだろう。
形而上的な答えは人間には決してわからないと思うのだが、今の時点で自分が思うのは、結局は素直に我(=自分)があることを認めて受け入れて(苦しみの原因である自分を認めるのはそれなりに辛いことではあるが)。そして、その上で、この世界とは何か、自分はどう生きるかを追求し、自分なりの答えを見つけてそれにしがみついて、生きて、そして死んでいく。それしか出来ないのだろうと思う。

人間が事物を認識し行動に至るパターンは、概ね以下のようなことだろうと思う。
①知覚→②認識→③感情→④思考→⑤意思→⑥行動
日々の生活において、その瞬間毎に知覚する感覚(五感)を認識(意識)し、何らかの感情が発生する(人間は見るもの聞くもの等、知覚した全てにおいて少なからず感情が発生する)。
その感情を元に思考し意思が生み出される(思考の量は感情の量に比例する)。
そして、その意思が人間を行動させる。
感情が発生する元になるものは認識能力であり、意思し行動する元となるものは思考である。
つまり、この認識能力と思考能力を磨き豊かにすることが、即ち、人生を豊かにさせると考えられる。思想や哲学を学ぶ意味はそこにある。
認識能力の欠如は、その都度、見た(知覚した)ものをそのまま感情に置き換える。
思考能力の欠如は、感情のまま行動に走りやすい。
これは、その都度、自分を取り巻く環境に振り回されているだけの状態であり、決して良質な生き方とは言えない。
このため、事物を認識するとはどういうことか、自分はどう生きるべきか、このことを刻々考え整理(方向づけ)しておくことが、豊かな人生を送るうえで不可欠である。
発生する事物を冷静に理解するように努め、素直で快活な思考で行動を決定すること。
このようなスタンスがこの世の中を生きる上での良き道標となるはずである。
自分は、唯識思想における阿頼耶識、スピノザによるエチカ(倫理学)、量子力学によるゼロポイントフィールド等々、これらの類の思想や哲学を参考にしている。ただ、何が正しいということはなく(超越的な存在に従って人生をよりよく生きるという意味では、殆どの思想が共通していると思うし、表現の違いなのだろうと思う)、人それぞれが人間に自然に備わる”善”の心に従って、一人一思想を持って行動することが、この混迷極まる世の中を良い方向へ導くものと信じる。

生きることは苦しいもの。
思えば幼少の時分から、ずっと、苦しいなあ、苦しいことばかりだなあって思ってきた。
思い出すだに、若い時の自分に「おー、よしよし」ってしたい気持ちなのである。
苦しみは無くならない。絶対に。それがこの世の掟。それはわかっている。だって、生老病死の苦しみは、誰もが生まれた時から課されているんだから。
神様は最初から人間をそういうものに作ってるんだから、苦しみなんて無くならない。そんなことはわかりきったこと。
この人間社会、どこを見渡してもうまく行かないことばかり。
大体に”上手くいく上手くいかない”という尺度が、人間の欲望を前提にしたものだから、やはり上手く行くはずがない。
満足することのない生き物である人間は、やはりどうやっても苦しみは無くならないのである。
ではどうすればよいか。
それには、苦しみが無くならないのだったら、その苦しむ主体である自分を無くそうとする。それが仏教である。
そしてそれを心の面から精緻な理論で体系化したのが唯識である。
人間は思考を持った生き物である。
苦しみが嫌ならば、まずはその思考を変えるべきである。
自分が信じられる思想や哲学に出会って、それを元にした物語を作るのである。
それだけではいけない。
その作り出した”物語”を日常生活で実践し昇華していかなければならない。
日常生活で実践し続けることで、少しずつ、今までの自分ではない自分が形成されていくのだ。
自分はまだその過程にある。
苦しいなって思いながら、その道を歩むことが修行だと思っている。
その先に成功があるのかどうかわからない。
ただ、それを信じてやっていくだけ。
それこそが信仰に生きるということである。
補足として断っておくが、唯識だけが正解であるなんていう気はさらさらない。答えはなんだっていい。
人それぞれの”物語”があっていいのである。
自分の場合はそれが唯識だったということ。
要は、自分が納得して安心しているかどうかなのである。
キリスト教でも仏教でも儒教でも神道でも、なんだっていいのである。

浅田次郎の「天国までの百マイル」を読み終えて、いつも思うけど、浅田次郎の小説は涙が出る。
「40を過ぎたいい大人が」とか「気持ち悪い」とか思わないでいただきたい。本当に感動するのである。
まさに泣きたい時は、浅田次郎の小説を手にとって見るといい。
「天国までの百マイル」は、人生には何が本当に大切で、何が感動を与えてくれて、何をなすべきなのかを教えてくれる作品。
会社が倒産し妻子に逃げられて落ちぶれた人生を歩む主人公の中年男が、一人、心臓病の母親を乗せて天才心臓外科医が居る病院まで車を走らせるというストーリー。
母親の命を顧みない兄弟との葛藤、元妻への仕送り、愛してもいない女に身を寄せる生活、旧友弁護士からの冷たい対応等、いろんな困難を乗り越えて、自分がなすべきことに目覚める。
一人の男が落ちぶれてから再び立ち上がる様を描いたものだが、自分には、その男を献身的な無償の愛で支える「マリ」に一番心を惹かれた。
他の小説でも思うことだが、浅田次郎は、性別の垣根を乗り越えて、驚くほど女性の心情を描くことに長けている。「なんで女性でも無いのにこんなに女性目線の気持ちを描けるのだろう」と思うのである。
この小説も主人公と同棲する愛していない”愛人”である「マリ」無くして、この作品に大きな感動を纏わせることはできなだろう。
現に、自分が読んで感動し涙が出たのは、主人公に対してではなく、その主人公を支え、最終的に男の真の愛を得た上で、男の幸せを願ってその人生から身を引いていくマリの姿についてである。
そのような無償の愛について涙が止まらなくなるのである(「40を過ぎたいい大人が」とか「気持ち悪い」と思わないでいただきたい)。
皆さんも、是非読んでみてはいかが?
浅田作品の他には、「聖夜の肖像」も胸をえぐられるような切ない感動を覚える。

人間社会の秩序や安全の乱れが加速している
この世界が実在するものか、独我論的な自分だけの世界なのかは、自分にはわからない。
というか誰にもわからない。
ただ、今のこの状況は良くないと思うし、神様からこの状況を課されているようにも感じる。
仏教思想の”唯識”には、善い行いをしたり、善い言葉を使ったり、善い心を持つと、それが根本心である”阿頼耶識”に植え付けられるという思想がある。
「身口意の業」である。
植え付けられた業は、将来、その阿頼耶識から芽吹き、芽吹いた世界が良いものになる。
この世界が実在するものか、独我論的な自分だけの世界なのか、自分にはわからない。
唯、自分が出来る善い行いに勤め、穏やかな心を持って毎日を生活しようと思う。
そうすれば、自分が目の当たりにしている世界もきっとより善いものになってくると信じている。
とりあえず、座禅は、今年に入ってから毎日欠かさずにやっているから、今日も頑張ろーっと(^^♪

日本でもオミクロン株の感染拡大が始まった
これによって、保健所や病院は慌ただしくなり、飲食店や宿泊施設からは人が居なくなる。
なるべく早くピークアウトを迎え、そして終息して欲しい。
昨今、地震や豪雪、台風の大型化による洪水や竜巻の発生等、自然災害が多発していて、人間が呼びかけるSDGsの潮流もなんだか心もとないものに思える。
カーボンニュートラルの加速化、DX時代の到来によるオンライン化及びシステム化、ワーケーションの導入、マスクのスタンダード化等々、人間の生活様式は急速に変化している。
文明が発達し便利や効率を手に入れ、我慢をすることが少なくなり、反対に快楽を得ることが容易となったこの社会は、相応の代償として自然からの報復があるのだろうかと考えてしまう。
それはそれでバランスが取れているのかとも思うし、人間は結局死ぬのだからと腹を括れば何が来ても同じと思わぬでもない。
だから人生は結局自分の心の問題なのだ。
平穏や平和を求めても、次から次にやってくる問題。
生きている限り決して止むことはない。決して。
僧侶の南直哉さんが言っているが、悩みを解決するように生きるのではなく、悩みを抱えて生きる以外にない。
”悩み”を”苦しみ”に言い換えれば、どこまで行っても苦しみがつきまとうこの世の中で生きていくためには、自分に課せられた苦しみを抱えてやり過ごしていく以外にない。
ただ、その苦しみが、善良な超越者から課せられたものであることを信じる。
夜のとっとり花回廊を鑑賞した。
イルミネーションに群がって光の中を行き交う人々。
手を繋いで歩くカップル、追いかけっこをする親子、友達同士で楽しそうに歩く二人、フードコートでラーメンをすする家族、園内列車の待ち合いに並ぶ行列、みんながみんな、それぞれの快楽を求めて、そして快楽によって動いている。
園内が多種多様な”色”に包まれて見えるのは、あながちイルミネーションの光ばかりが理由ではないだろう。
自分は自分の世界だけで鑑賞すればよいのだが、雑多な”色”を目の当たりにするに連れて気持ちが沈むのは、昔からの癖だろうと思う。
そして、カラフルな光よりも、園の外れの薄暗い闇夜にポツンと佇む一本の木に心を奪われるのである。








おぞましいタイトルだが、言葉のとおりなのである。
何しろ、”全剥がれ”は初めての経験だ。
家のサッシの下部分に足を踏み出したら、爪が引っかかってバリっと剥がれたのだ。
「痛っ~!」
恐る恐る指を見ると、爪が剥がれて中の肉が剝き出しになっているのである。(笑)
不思議と痛みは少ないが、とにかく自分の足を見て気持ちが悪い。
翌日病院に行こうとしたが、そう言えば爪剥がれって何科を受診するのかなと思い、ネットで調べると、「皮膚科」か「形成外科」なる診療科とのこと。
ひとまず、先週皮膚の湿疹で受診したばかりの行きつけの皮膚科を受診することに。(皮膚に爪にいろいろ大変な人だと思われただろう・・・)
先生の見立てでは、剥がれた爪がひとまず皮膚にくっついてるので、無理に剝がさずに下から膜が張ったらとりましょうとのこと。ああよかった。こんな時は妄想が膨らんでどんな恐ろしい処置をされるのかと心配だったのだ。
「ああ、これは化膿してもうダメですね。麻酔して指を切断しましょう。」なんて言われたらどうしようとか(笑)←馬鹿々々しい。
それにしても、「人生いろいろ」、「一寸先は闇」だなあと思った今日この頃だった。

神田神社に初詣。
昨年までのお守りを神社に預けてからお参り。本殿の賽銭箱にお金を投げ入れてから二礼二拍手一礼。
本殿以外にもお神輿さんやお稲荷さんや何やら祠のようなものの数々に参拝。
「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」、「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」、「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」をひたすら繰り返す。
これは誰に何をお願いしているんだろう?そして、私は誰だろう?等と間違っても思ってはいけない。ひたすら無心で頑張るのである。(^_^;)
馬の銅像は、米子の名士「坂口平兵衛」氏が寄進されたもののようです。
当代坂口平兵衛氏から鏡餅がお供えしてありました。


お守りを買い求めるお客さん。
どんなに科学が発達し、文明が進んでも、人間は心の底では神様を信じるものだと思います。
お守りを握りしめて頑張りましょう。

