顔に朝陽を浴びながら
車を走らせる
その陽光はなんだか灰色を帯びている
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或る日の朝
朝、いつものとおり出勤の支度。
ルーティンを済ませ、カーディガンを羽織る。
その時、肘に白い糸くずが付いているのに気付く。
つまもうとするが取れない。
「あれ?」
違う。糸くずではなくて、カーディガンの繊維が綻んで下のカッターシャツの白地が浮き出ていたのだ。
がっかり。無念にも早速着替える。
次のカーディガンは?
大丈夫だ。そして出掛ける。
いつもの当たり前のルーティン。
それが上手くいかなかった。
ふと思う。
生活の殆どがルーティンで出来ているのだなと。
そのルーティンが当たり前に出来ているから、その土台の上に、幸せなり不幸なりなんなりと乗っかっているのだ。
朝起きて開けるカーテンのフックが折れないで居てくれる
電池が朝の髭剃りを動かしてくれる
トイレの水がいつもどおりに流れる
車のハンドルを真っ直ぐに保っていてくれる
遠い親戚が元気で居てくれる
大気を自由に吸うことができる
今日も地球の自転が傾いていてくれる
みんながみんな
自分の生活を支えてくれているんだなと。
仏教思想の根本的理念に「縁起」というのがある。
現代では、”縁起がいい”等と運がいいぐらいの意味にしか使われないが、元々は「因縁生起」の略語。因という元の要素が縁という作用で生起するということ。”自分”というものは、それ単体で成り立っているのではなく、様々な外的な要素や他人との関わり合いの中で構成されていると説いている。(厳密には世界を中とか外に分け隔てず自他一如だが)。それが縁起である。
カーディガンのほつれも、自分をこれまで支えてくれた証拠。
感謝し修復して今後も着ることにする。
でも自分は裁縫できないから、かみさんにお願いしよっと。
そこも自分を支える縁起、縁起。

帰り道にて
人生これ修行なり
生きることは苦しいもの。
思えば幼少の時分から、ずっと、苦しいなあ、苦しいことばかりだなあって思ってきた。
思い出すだに、若い時の自分に「おー、よしよし」ってしたい気持ちなのである。
苦しみは無くならない。絶対に。それがこの世の掟。それはわかっている。だって、生老病死の苦しみは、誰もが生まれた時から課されているんだから。
神様は最初から人間をそういうものに作ってるんだから、苦しみなんて無くならない。そんなことはわかりきったこと。
この人間社会、どこを見渡してもうまく行かないことばかり。
大体に”上手くいく上手くいかない”という尺度が、人間の欲望を前提にしたものだから、やはり上手く行くはずがない。
満足することのない生き物である人間は、やはりどうやっても苦しみは無くならないのである。
ではどうすればよいか。
それには、苦しみが無くならないのだったら、その苦しむ主体である自分を無くそうとする。それが仏教である。
そしてそれを心の面から精緻な理論で体系化したのが唯識である。
人間は思考を持った生き物である。
苦しみが嫌ならば、まずはその思考を変えるべきである。
自分が信じられる思想や哲学に出会って、それを元にした物語を作るのである。
それだけではいけない。
その作り出した”物語”を日常生活で実践し昇華していかなければならない。
日常生活で実践し続けることで、少しずつ、今までの自分ではない自分が形成されていくのだ。
自分はまだその過程にある。
苦しいなって思いながら、その道を歩むことが修行だと思っている。
その先に成功があるのかどうかわからない。
ただ、それを信じてやっていくだけ。
それこそが信仰に生きるということである。
補足として断っておくが、唯識だけが正解であるなんていう気はさらさらない。答えはなんだっていい。
人それぞれの”物語”があっていいのである。
自分の場合はそれが唯識だったということ。
要は、自分が納得して安心しているかどうかなのである。
キリスト教でも仏教でも儒教でも神道でも、なんだっていいのである。

泣きたくなったら浅田次郎
浅田次郎の「天国までの百マイル」を読み終えて、いつも思うけど、浅田次郎の小説は涙が出る。
「40を過ぎたいい大人が」とか「気持ち悪い」とか思わないでいただきたい。本当に感動するのである。
まさに泣きたい時は、浅田次郎の小説を手にとって見るといい。
「天国までの百マイル」は、人生には何が本当に大切で、何が感動を与えてくれて、何をなすべきなのかを教えてくれる作品。
会社が倒産し妻子に逃げられて落ちぶれた人生を歩む主人公の中年男が、一人、心臓病の母親を乗せて天才心臓外科医が居る病院まで車を走らせるというストーリー。
母親の命を顧みない兄弟との葛藤、元妻への仕送り、愛してもいない女に身を寄せる生活、旧友弁護士からの冷たい対応等、いろんな困難を乗り越えて、自分がなすべきことに目覚める。
一人の男が落ちぶれてから再び立ち上がる様を描いたものだが、自分には、その男を献身的な無償の愛で支える「マリ」に一番心を惹かれた。
他の小説でも思うことだが、浅田次郎は、性別の垣根を乗り越えて、驚くほど女性の心情を描くことに長けている。「なんで女性でも無いのにこんなに女性目線の気持ちを描けるのだろう」と思うのである。
この小説も主人公と同棲する愛していない”愛人”である「マリ」無くして、この作品に大きな感動を纏わせることはできなだろう。
現に、自分が読んで感動し涙が出たのは、主人公に対してではなく、その主人公を支え、最終的に男の真の愛を得た上で、男の幸せを願ってその人生から身を引いていくマリの姿についてである。
そのような無償の愛について涙が止まらなくなるのである(「40を過ぎたいい大人が」とか「気持ち悪い」と思わないでいただきたい)。
皆さんも、是非読んでみてはいかが?
浅田作品の他には、「聖夜の肖像」も胸をえぐられるような切ない感動を覚える。

爪が剥がれちゃった
おぞましいタイトルだが、言葉のとおりなのである。
何しろ、”全剥がれ”は初めての経験だ。
家のサッシの下部分に足を踏み出したら、爪が引っかかってバリっと剥がれたのだ。
「痛っ~!」
恐る恐る指を見ると、爪が剥がれて中の肉が剝き出しになっているのである。(笑)
不思議と痛みは少ないが、とにかく自分の足を見て気持ちが悪い。
翌日病院に行こうとしたが、そう言えば爪剥がれって何科を受診するのかなと思い、ネットで調べると、「皮膚科」か「形成外科」なる診療科とのこと。
ひとまず、先週皮膚の湿疹で受診したばかりの行きつけの皮膚科を受診することに。(皮膚に爪にいろいろ大変な人だと思われただろう・・・)
先生の見立てでは、剥がれた爪がひとまず皮膚にくっついてるので、無理に剝がさずに下から膜が張ったらとりましょうとのこと。ああよかった。こんな時は妄想が膨らんでどんな恐ろしい処置をされるのかと心配だったのだ。
「ああ、これは化膿してもうダメですね。麻酔して指を切断しましょう。」なんて言われたらどうしようとか(笑)←馬鹿々々しい。
それにしても、「人生いろいろ」、「一寸先は闇」だなあと思った今日この頃だった。
初詣

神田神社に初詣。
昨年までのお守りを神社に預けてからお参り。本殿の賽銭箱にお金を投げ入れてから二礼二拍手一礼。
本殿以外にもお神輿さんやお稲荷さんや何やら祠のようなものの数々に参拝。
「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」、「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」、「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」をひたすら繰り返す。
これは誰に何をお願いしているんだろう?そして、私は誰だろう?等と間違っても思ってはいけない。ひたすら無心で頑張るのである。(^_^;)
馬の銅像は、米子の名士「坂口平兵衛」氏が寄進されたもののようです。
当代坂口平兵衛氏から鏡餅がお供えしてありました。


お守りを買い求めるお客さん。
どんなに科学が発達し、文明が進んでも、人間は心の底では神様を信じるものだと思います。
お守りを握りしめて頑張りましょう。








