紀行-スナップ」カテゴリーアーカイブ

街道を歩く~南部町天万~

今回は旧会見町天万、初の南部町内の散策である。
ここは江戸時代末期、従来の米子から岸本、溝口を経る出雲街道に替わり、米子から天万、三部を経て二部に至る新出雲街道が開設された際に、その宿場町として松江藩大名行列の本陣が置かれた場所なのである。
北からは米子、西からは旧出雲国の母里からやってくる道が交差し、その三差路には道標が立てられていたのが印象的だ。
歩いてみると、質朴で品の良い静けさと歴史が感じられる町である。

撮影日 2025.12.18
camera CANON G7X MarkⅢ

まずは天萬神社から歩き始める。
奥に見えるは大山。
今日は天気が良く大山の姿が空に浮き彫りに映えていた。

強い日光と深い影で格調高く映える天萬神社。

町の床屋さんの看板が格調高い。かな?

通りからも大山が望める。

昨晩は雨。
雨露で潤う。

本陣門脇家の屋敷。
現存している建物は、大正元年に建てられたものとのこと。
大正デモクラシー、太平洋戦争、市町村大合併や震災等々、多くの激動の歴史を記憶しているのだろう。
塀越しにしばらく佇み、建物から語りかけてくる声に耳を傾ける。

この道を真っすぐ行くと、旧出雲国母里に至る。
この町にも飛び出し坊やが!(写真右側)。
昔と違って今は車に注意が必要。
「飛び出さないでね~」
と言っても、飛び出すから飛び出し坊やなのか。彼には彼の仕事がある。そっとしておこう。

趣ある町並みが続く。
往時は宿が100件以上あったそうだ。

冒頭の道標。
今は農業者トレーニングセンター前に移設されている。
読みにくいが、「左二部・上万道 右母里・法勝寺道 慶応三年九月」と書いてある。
米子から来た旅行者への道標だ。
慶応三年は西暦1867年。明治維新の前年だ。

出雲街道全盛期は、商店が立ち並んでいた。

南天の実と赤いバラが綺麗。
ちょっと伝わりにくいかな。

米子から歩いて来ると右側に天萬神社に続く真っすぐに伸びる道がある。
その道には立派な鳥居が2箇所。
きっと大名行列も旅の安全を祈願して参拝したのだろう。

ゆずが綺麗に太陽に照らされていた。

地元の方のお話では、この辺り、古代は海だったそうである。町内に三崎という地名があるが、その名残だそうである。

桜の木(かな?)。
休眠期に入り、春にはまたたくさんの花を咲かせるに違いない。

街道を歩く~大山町坊領~

大山町坊領。
その名のとおりこの地域は、中世~江戸時代にかけて、大山寺勢力の寺領であり大山本坊所領の中心地であった場所である。
大山の裾野の中ほどにあるこの坊領は、緩やかな勾配のある町であり、裾からやってきた旅人が大山寺に向かって登りつつあることが実感できる。
また東西に開け、かつ南北に長く続くこの谷は、大山の裾野の中でもひときわ広い。上には佐摩、鈑戸、西側には宮内集落等、多くの集落を包含しており、農地も広く、大山クロボクに覆われた肥沃な土地を坊領川の水が豊かに潤している。僧兵3,000人を抱える大山寺は、この広大な肥沃な土地を領し、勢力を維持していたことを実感できる。

撮影日 2025.12.10
camera CANON G7X MarkⅢ

坊領の町の上手にある坊領川改修碑。
鳥取県知事岩田衛氏揮毫。
調べたら、岩田知事は1920年代。
災害対策か灌漑用の改修か。いずれにしても先人の知恵と努力の上に今があることを忘れてはならない。

佐摩神社。
地元の方。お参りを日課にしているとのこと。
拝殿前で綺麗な歌唱を響かせていた。
静寂で神聖な良い空間と時間を共有させていただいた。

「奉 大山大智門大権現 坊領村中安全」とある。
坊領の氏神であり守り神である。

均整の取れた厳かな空気感。

坊領に生まれて80年のご年配の方。ついつい話し込む。
ネギ、白菜、里芋、キャベツ、イチゴ等、いろんな野菜を自家栽培している
坊領は最盛期は100件あったが、今は80件程
黒ボクは川よりも東の方が肥沃であること
昔は作った大根を畳裏に保管していた話 等々。

年配の方の話を聞いた後、心地よい余韻が残る。大根の話等、昔から続くそうした日々の何気ない生活習慣が貴重な日本固有の文化であろう。本人は決して文化を守ろう等という上辺の気持ちでやっているのではなく、ただ淡々と生活に必要な動作をしているだけだと思うが…
今はそうした日常の文化が無くなっていく時代だが、以前はそうしていたという記憶だけでも心の中で生き続ける。
無くなって生き続ける。歴史、文化というものは本来そういうものかも知れない。

妙玄寺。
宗派は、大山寺の流れを汲んで天台宗。
先ほどの方のお話では、坊領の他、鈑戸等、広範囲に檀家さんが居られるようだ。

足長おじさん(実際の足の長さは異なる)。
これからも、細くても長く撮り続けていきたい。

真っ赤な南天の実が街道を彩る。

綺麗な模様の蔵が街道を彩る。

マス目が目を引く。
土壁やトタンに時代を感じる。

黒瓦の重厚な家々が続く。

玉ねぎが美味しそうだ。

日交のバスが走っていく。
こうしてバス路線が残っているということはこの谷には需要が残っているということだろう。
上手にも大山小学校があるし、さっきの年配の方にもお孫さんがお家に居るとのこと。
人や子供は地域の宝。地域そのもの。

街道からも大山が見える。

坊領のバス停。

昔の街道にはカーブミラーが多い。

わかりにくいが、大山の北壁が描かれている。

大山から染み出してくる水が町を潤す。
適度な傾斜が心地よい水音を立てて下流に流れて行く。

蔓は上に昇っていく。

開墾記念碑。
肥沃な大地。先ほどの坊領川改修による恩恵だろう。作物が育つ様子が良くわかる。

秋のアンカー、銀杏も散り、山陰もいよいよ冬本番。

少し町を外れてみると荒涼とした風景が味わえる。
郷愁を感じる空気感である。

街道を歩く~淀江町今津~

淀江町今津は、湊町淀江の東端に位置する。
つまり伯耆街道を鳥取方面からやってきた旅人は、この今津において淀江の町に入ってゆくのである。
曇天の仲冬の頃、今津の西側にある淀江漁港を起点に東に向かって歩き始めた。

撮影日 2025.12.6
camera CANON G7X MarkⅢ

寒風吹きすさぶ港。
この日は気温8℃。体感温度はもっと寒く感じられる。
風がビューっと吹く。心が折れそうになる。

寒さにめげず、ツバキは頑張って成長している。
心折れている場合ではない。

町はほぼ一本道の両側に家々があるのみ。
こういった景観は、江戸時代当時と同様のものだろう。

散り残る葉に冬の訪れを感じつつ。

妻木川を渡る。
妻木川は大山山麓の孝霊山から流れ来る。
写真は下流方面。

今回の目的地の今津の金毘羅灯篭。
金毘羅大権現は海の守り神。
灯篭に天保5年(1834年)12月の建立とある。今も12月だから、191年前。
長い時を経ながらも淀江の町を守り続ける。


時を刻んだ灯篭の石肌と、その石を積み上げた地域の人々の思いに畏敬の念を抱く。

畏敬の念を抱いた後に覗いてみる。
思いは重いが、自分のやってることは軽い。

ここ淀江の地は、古代から江戸時代まで、汗入(あせり)郡という行政区画に属していた。
今では聞きなれないが、部分的にはこうしてその地名が残っている。

伯耆街道から美保湾を望む。
海を隔てて向こう側には美保関半島が見える。
伯耆国は、このように雄大な景色が特徴。

遠く孝霊山を望む。
そこから染み出してくる水が、田畑への水分及び養分の供給、人々への飲み水の提供、水運等々、人々の生活を豊かにしてきたのだろう。

風見鶏。
今日はどちらに行きますかー?って言っている。
そう言えば、自分が通っていた保育園にも風見鶏が居たなあ。

淀江漁港前の恵比寿神社に戻ってきた。
どんよりした雲の合間から晴れ間が覗く。
荒涼としたロケーションによく似合う。



街道を歩く~琴浦町赤碕~

琴浦町赤碕。旧赤碕町の中心地だ。
”赤碕”という名は、古代この地に赤碕氏という武将が居たそうでそれが由来であるという。ちなみに赤碕氏の墓は、かの有名な花見潟墓地にある。
赤碕は、東港、西港、菊港の3つの港があり、また江戸時代には年貢米を納める藩倉も置かれ、流通や経済の面でも大変活気のある町であった。
ゆえに見どころも沢山あるが、今回は町の南、大山への参拝道の別れ道付近を散歩した。

撮影日 2025.12.2
camera CANON R6MarkⅡ

ツバキ咲く季節。

道々で、何かに手を合わせておられる人が居た。
理由はわからないが、こういう光景は嫌いではなく、善いものだと思える。

こちらは、カーブミラーに向かってカメラを構える人。
こういう光景は怪しいものだと思える。

庭先に綺麗なバラ。

庭を綺麗にされてるなあ。
我が家の庭も掃除しなくては。

”庭仕事 人のもみじに 刺激受け”

米子方面を望む。
果てしなく続く道。

そう言えば世はクリスマスシーズン。
サンタさんは本番前に日光浴。

道すがら町のパン屋さんでクリームパンと食パンを購入した。
地元で愛される「小谷パン店」さん。レジでお話を聞いたら創業80年だそうである。
クリームパン、めっちゃくちゃ美味しかった。
食べることに気を取られ、写真を撮り忘れた。写真家にあるまじき行いである。

この辺りの小字は地蔵町というのかな?字名は赤碕のはずだから。
このバス停の近く、大山と船上山の分かれに標石とお地蔵さんが立っているが。

その大山と船上山の道標しるべの標石。
この道の手前には、伯耆街道とこの道への別れ道があるので、赤碕は鳥取方面からやって来た人にとっては二つ目の別れ道。交通の要衝だ。

左へ行けば船上山。
右へ行けば大山。
今日はどちらに行こうか…
風の向くままに…

普通に帰り道が右なので、カッコつけるまでもなく大山方面へ歩く。

古代から路傍にはススキが咲いていたのに相違ない。
日本の原風景。

野菜の栽培。
ほうれん草?小松菜?ブロッコリーかな。
大山黒ボクの肥沃な土壌でよく育つのだろう。自然の恩恵。

街道を歩く~淀江町淀江~

撮影日 2025.11.25
camera CANON G7X MarkⅢ

今回は米子市淀江町淀江。江戸時代に宿駅のあった湊町だ。
伯耆街道は大山の山麓が扇形に拡がる海沿いの道を西に歩き、ようやくこの淀江の地を経て米子平野が開けてくる。
淀江は江戸時代には大変盛況だったようで、資料によると江戸時代200年でその人口が10倍近くに急増したとのことである。
伯耆街道を中心に小路や水路が縦横に張り巡らされていて、歩いてみると、意外に(と言っては失礼だが)、理容店、酒屋、服屋等、多くの商店が営業されており、当時の盛況さの一端が感じられたような気がした。

駅前のパーマ屋さん。
面白い入口。
そう言えば今回営業中の理容店を3、4件見たな。
おしゃれ需要のある土地柄なのだろうか。

服屋さんも2、3件あったような。

酒屋さんにやかんがぶらさげてあった。

今回は淀江駅からスタートし、淀江台場跡を目指して歩いた。
鳥取藩には8か所の砲台が設置されたそうだが、淀江台場はそのうちの一つ。江戸時代末期ペリー来航の折、海岸防備の機運が高まり、淀江の庄屋松波宏年が土地を提供して地元の人の協力を得て作ったとのこと。
これだけの工事をしたということは、その分だけ当時の人々の危機感があったということなのだろう。
土塁を上がっていく。

土塁の上から美保湾を望む。
淀江台場は、美保湾の東岸に作られていて、丁度、淀江の町を東から見守るように作られている。
また大砲の射程も4㎞あったとのことだから、美保湾への侵入を防止するに良い土地を選んで普請したのだろう。

土塁の内側には公園が整備されている。
ベンチから秋の哀愁が漂う。

紅葉も落ち葉となりやがて土に帰っていく。
長い冬を越えたら、また新しい緑が出てくるだろう。

淀江は町の真ん中を宇田川が流れる。その豊かな水運を利用して生活していたのだろう。
このような水路が縦横に張り巡らされている。

町の中ほどで道がクランクになっている。その角には精明寺。
道が折れ曲がっているため突き当りに見えるのが印象的。

こうして切り取ったら面白いな(笑)

淀江駅に帰ってきたら雲の間から光芒が降り注いでいた。
「頑張りましたね~」って。

駅前のお花畑。
カラフルで綺麗。

街道を歩く~淀江町西原~

江戸時代の宿駅淀江。
今回はその淀江の西隣、西原の地を散歩した。
かつてこの地には鳥取藩の年貢米を収める藩倉があり、藩の重要な拠点であったようだ。
また由緒ある日吉神社も見どころ。

撮影日 2025.11.4
camera CANON G7X MarkⅢ

歩き始めは日吉神社前。
紅葉が綺麗。

案内板によると、日吉神社の創立年月は不詳。境内一角には、海神のサナメ神が祀られているとのこと。清和天皇から西暦874年に位階を授けられたとのことで、歴史由緒ある神社だ。

なんとこの神社。境内の中を列車が走っている知る人ぞ知る神社。参拝中にも、2、3本のJR列車が通過していった。
列車の中からもお参りできる。かな?

一片の葉に郷愁を感じつつ…

静かで厳かな境内。
拝殿前には、私の他にもう一人の参拝客。
時間をかけて静かにお参りしていた。
日本人の善き心。

昔からの街道に多い曲がりくねった道。

秋の陽に照らされる。
積み上げられた木材。

どっしりと重厚な黒瓦の建物が続く。
少し前に美保関の地元の方に聞いた話では、出雲の赤瓦屋根の人達は黒い屋根に高級感を感じて憧れを持っているとか。

宇田川の岸辺にも建物が並ぶ。
湊町であり、水運が発達していたことが伺える。

江戸時代も、この街道を多くの旅人が行ったり来たりしたのだろう。

街道から淀江小学校が見える。
あの辺りに藩倉があったのかな。

柿がよくなっている。
今年もやがて年の瀬を迎える。


街道を歩く~湯梨浜町・小鹿谷~

撮影日 2025.10.29
camera CANON G7X MarkⅢ

今回は湯梨浜町の小鹿谷である。
小鹿谷は、東郷池のほとり松崎の町を南に約1㎞行った先、羽衣石城が建つ山塊の山裾に位置する。
かつて鳥取藩の陣屋があった地であり、藩家老の和田氏がこの界隈の自分手政治を行った拠点がこの小鹿谷なのである。
今ではその面影はなく、わずかに残る石垣と素朴な集落の町並み、東郷神社の厳かな佇まいに落ち着いた情緒が感じられる。

東郷神社前の金毘羅灯篭から歩き始める。

東郷神社は、大正6年に旧東郷村内にある13社の神社を合祀しこの地に新設されたとのこと。

立派な鳥居は比較的最近に建立したもの。
鳥居裏に建立日の記載があったが失念(-_-;)

かなり長い石段。
訪問される方は心して行かれるように。

石段の上にドングリ。
秋が深まる。

石段を登り門をくぐったら手水舎。
左手と右手をゴシゴシし、口をすすぐ。
体を清めるは、心を清めることなり。

参道脇の黄色い花。

田んぼの収穫も終わったようだ。
小鹿谷は、適度な広さの平地、後ろに山、前には東郷川。
きっと古代から生活に適した土地であったに違いなく、稲作も、適度な傾斜地が好都合だったのだろう。

庭先に柿が吊るしてある。
そういえば子供の頃、欲し柿なんて欲した記憶が無いが(ダジャレではなく)、歳をとった今となれば、時々無性に食べたくなる。

町の中には石垣が残る。町は緩やかな傾斜になっていて、奥に進むには登って行かなければならない。人生と同じである。

石垣のスロープ。

石垣ったら石垣なのである。

200m程登ってきたか。
文献によると、この辺りに陣屋が建てられていたようである。
今は田畑になっている。
どんな土地でも、人が生きた分だけ、重層的に歴史が積み重なっている。

湯梨浜町は、旧泊村、旧東郷町、旧羽合町が平成の大合併で生まれた町。
旧東郷町は梨の産地。

こんな風に栽培するのですね。初めて見たかも。
水やりが効率的にできそう。

ねこじゃらし。
子供の頃、かくれんぼや鬼ごっこの最中に見つけて、そんな時はほぼ確実にニギニギしてたなあ。

街道を歩く~米子・外堀通り~

近世米子城は、毛利元就の孫・吉川広家が領内の本拠地の適地として、この米子の地を選び整備を始めた。ただ、広家は、城下町完成前の関ケ原戦後に転封となり、その後、新たな城主中村一忠によって城下町が完成した。米子の地は、軍事面だけではなく、政治・経済・交通の面で領内の最適地として選ばれたようである。
今回は、米子城の外堀であった通称外堀通りを歩いた。米子城の内堀と外堀との間が侍屋敷地区であったため、今歩いてもところどころにその面影が感じらる。

撮影日 2025.10.24
camera CANON G7X MarkⅢ

街路樹もチラホラ色づき始めている。
船は、外堀~中海を航行する遊覧船。

建物の間から米子城跡が見える。
米子城は、五重の天守閣。きっと城下町から望むその姿は、壮麗なものだったに違いない。

やたら目についた「駐車場」の看板(笑)
これだけあれば行き過ぎない。大丈夫。

赤いたこ焼き屋さん。
ここは天神町。
「お母さん、天神のたこ焼きにしよ!」

堀の向こうには幅の狭い建物が立ち並ぶ。
当時から町屋の長屋が密集していたのだろう。

外堀通りは、現在でも交通に生活に用途が多い道路。
多くの車や人が通る。

廻船問屋後藤家住宅。
立派な切妻屋根。
船が着き、荷の揚げ降ろしをする様子が思い浮かぶようだ。
場所は中海に近く立地の良さが伺える。

後藤家は江戸時代初期に石見の国から移り住んだとのこと。
これは後藤家の家紋?

後藤家すぐ前の外堀。
奥にはすぐ中海。
手前には撮影者。

犬とお散歩中の方に撮らせていただいた。
歩道が良く整備され、腰をかける場所も多く、ホントに良い散歩コースである。

ナナカマドの実。
日光に照らされて良く映えていた。

街道を歩く~日野町黒坂~

日野町黒坂。
現在では、日野町内の政治・交通等、生活の中心地は日野町役場のある根雨だが、古代律令制の時代まで遡ると、郡の役所、いわゆる郡家(郡衙)はこの黒坂の地に置かれていたようである。
また、江戸時代初期には、伊勢亀山城主関一政がこの地に転封された際に、日野川に包まれかつその土地が比較的広く、立地の良い場所としてこの黒坂の地に城下町を普請した。
黒坂は、古代からの時間の縦軸で観察してみると充実した歴史を有し、また、町を歩き空間的な横軸で観察してみると、山と川に囲まれた堅牢な防衛機能と縦横に真っすぐ整備された上品な街並みに非常に趣を感じる。

撮影日 2025.10.7
camera CANON G7X MarkⅢ

いい天気。
次第に秋の空に移っていく。
屋根の鯱も気持ちが良さそう。

日野往来が黒坂の町屋の間を真っすぐに走る。十分に昔情緒が感じられる。他では見られない印象的なストリートだ。

「人となるというのは 迷うということです」
ホントにそうです。
強弱の差はあれど、人は常に何かしらに迷いながら生きている。
迷いを経験した程、充実した人生になるだろう。

迷い人。

おしどりが応援してくれている。
「頑張れー、迷い人ー。」

メインストリートの一本外側の通り。
アスファルトを土に変えてイメージすれば、充分昔のままの風景が想像できる。
黒坂の町は、天然の堀に守られ防衛機能が高いためか、堀内の町並みは機能性を考慮して真っすぐな道路が整備されたようである。

今回黒坂の町を歩いたところ、買い物ができる商店は、この長尾商店さんぐらいかと思った。
この町の生活を支えるお仕事に頭が下がる思いだ。

旧山陰合同銀行の建物。
レトロな質感がとても上品。

町の南端にある曹洞宗光明寺。
黒坂の町には北と南の各入口付近にお寺や神社が配置されて、町の防衛のための機能も担っていた。
こちら光明寺は、南の入口、即ち備後(広島県)側からの侵入に備えて配置されたとのこと。
黒坂の町は日野川の自然の堀にも囲まれて、非常に防衛機能が高い町だったことが、歩いていても非常に良くわかる。

JR黒坂駅前の通り。
パラパラと人の影。簡素な空気感に好感。

JR黒坂駅。
奥には、黒坂城、即ち関一政により築城された鏡山城跡。

駅舎の中にお人形さん。熊野詣のお土産かな。
昔も徒歩の時代には、寺社巡りや大山牛馬市等の旅人が、この地を通っていったのだろう。


街道を歩く~江府町洲河崎~

江府町洲河崎。
鳥取県西部を流れる日野川は、俣野川が合流する武庫辺りで大きく左カーブを描いて蛇行して流れる。
その大きなカーブに包まれるように洲河崎の田園風景が拡がっている。
その田園風景の先の山裾に、赤い石州屋根が立体的に立ち並ぶ。
国道181号線を車で走りながら良く見える。
この日、その景観の良さについつい引き込まれ、予定にない散策を始めた。

 

撮影日 2025.9.30
camera G7X MarkⅢ

 

出発地点の洲河崎橋の西詰。
昭和48年3月竣工の記念碑。
当時の石破二郎知事の揮毫。
現総理の父上だ。

綺麗な赤い石州瓦の屋根が立ち並ぶ印象的な光景。
背景の山、前には田園。緑に囲まれて赤が映える。

稲を木組みにかけて干すことを、地元では、”はでかけ”という。
伯耆町で農家さんにお話を伺った時、農協に卸す米は、稲刈り機で刈った後、そのままの稲を農協に引き渡す。農協は乾燥機で乾かす。自分が食べる分は、はでかけで天日干し。この方が栄養分が高まるのだそう。気分的にもその方がエネルギーをもらえそうだ。納得納得。

趣ある道を登って行く。

コスモスが街道に花を添える。
ん?
コスモスは言われなくても花か。
でも”コスモスがコスモスを添える”ではおかしいな…
まあ、なんでもいいか。

坂を登り切ったところに砂防堰堤。
近年の豪雨等も考えると心強い設備である。
つくづく、先人の努力の上に今の生活があることを思う。

眼下には日野川が流れる。
対岸は武庫の町。
丁度、長い貨物列車が長いカーブを進んでいく。

何気ない集落の風景だが、存外、大人になって故郷に帰ったとき、このような素朴な光景に懐かしさを憶えるのではないだろうか。

猫じゃらしが街道に花を添える。
ん?
これはいいか。

地元の氏神、洲河崎神社。

地元の方のお話では、10月5日、6日に当神社でお祭りがあるとのこと。
歴史があるイベントはいつまでも続いて欲しいものだ。

大変風情のある通りである。

山からの綺麗な水を引き込み集落を流れる。
鯉も健康的に泳いでいた。

川向うは武庫の町。ダジャレではなく。
この日、お話をお伺いした高齢の女性は、武庫のまたの、向こうの俣野の町から嫁いできたとのことである。ダジャレではなく。
この対岸の景色を見ながら故郷を思うこともあったに違いない。

倉が立ち並ぶ綺麗な景観である。

 ”柿食えば
   倉が建つなり
      洲河崎の”

柿が成り、曼殊沙華が咲く。
徐々に秋が深まっていく。

街道を歩く~琴浦町逢束~

今回は琴浦町の逢束(おおつか)を歩いた。
記録的な猛暑も落ち着き、秋の入口、気持ちの良い空気である。
それでも1時間程歩いたか、汗で肌がしっとりと濡れている。

琴浦町逢束。江戸時代には、この地に宿駅と藩倉が設置されており、交通、政治の面で拠点となった場所である。
ただ、隣には八橋という大きな宿場町があり、宿駅間の距離的な理由により、江戸時代中期にはこの宿駅は廃止され、由良宿に移されたとのこと。
それでも、町の真ん中を走る趣ある旧道を歩くと、程よい曲がり道とそれに沿う落ち着いた家々が立ち並んでおり、往時、街道を行く旅行者の情緒が感じられるようである。

 

撮影日 2025.9.28
camera Canon G7X MarkⅡ

 

伯耆街道、鳥取方面から米子方面を望む。
向こう側に見えるのが逢束の集落。

県内各地では、米の収穫が終わりつつある。
収穫後の藁を集めているのか、農耕車が田んぼの中を行き来していた。

「東京力士 黒岩萬吉の墓」という墓石。
家に戻ってから調べると、黒岩萬吉さんは明治時代に活躍した郷土出身力士とのこと。

加勢蛇川。
この川を渡ると逢束である。

加勢蛇川河口。
こっちは行き止まりです。こっちですよ~。

地元の幼児が、「気を付けてね~」と手を振ってくれた。

右に左にカーブが続くので、車は速度を控えめに。

家の間から随所に日本海が見える。

行く道、来る道。

緩やかなカーブが歩いて心地よい。

町の防火設備。
密集した木造建築が立ち並ぶ町では、防火意識が高かったのだろう。
この地には、年貢を納める藩の穀倉がおかれたが、藩倉の周りには火除地も作られていた。

曹洞宗林泉寺。
曹洞宗は禅宗の一派。
きっとこの寺でも、地元の雲水達が座禅修行したのだろう。

日本海を望み、感傷に耽る。
もうすぐ秋も深くなるだろうな。


街道を歩く~大山町上市・下市~

前回に引き続き旧中山町内を歩いた。
今回は上市・下市界隈である。
この辺りは、古代律令制の時代に伯耆国汗入(あせり)郡と呼ばれていたそうだ。
拝観させていただいた下市の妙元寺の案内板にも「汗入郡二十三番札所」と記載があり、現在もこの古代の郡名が一部においてであるが使用されていることに感動した。
今回の撮影もあせりは禁物、ゆるゆると歩いて行こう(^_^;)汗

撮影日 2025.9.4
camera Canon G7X MarkⅡ

下市駅から出発。
9月に入ったが、今年の夏も、もはや毎年の恒例行事”記録的猛暑”である。
気温は35度。

下市は、伯耆街道(八橋~御来屋間)旅行者の丁度良い休憩場所だったようである。

目指すは、旧中山町の西端、下市川。
それにしても暑い(^_^;)汗

路傍の花。

遥かな西への旅路。

この辺りは日本海からの強い風を利用するため、風車が立ち並んでいる。

街道から日本海が見える。
手前には稲作の田園風景。
雄大な景色が広がる。

丁度上市から下市に入った辺りで下り坂となる。
大山から伸びる筋状の台地からなる起伏である。

小泉八雲が道中、上市に宿泊した際、こちら妙元寺で行われた盆踊りを見物し、その出来事を著書「知られぬ日本の面影」で「下市の盆踊り」として紹介したとのこと。

小泉八雲の心象がとてもわかる気がする。
外からやってきた人の方がその土地の特有の文化に、郷愁も相まって、強く鮮明な感動を憶えることは人間共通の心だと思う。
そしてそれが、遠ければ遠い地である程、より強く現れる。

よく見る狸の置き物。
「僕、ポン太だよ」って言っていた。
知らないけど・・・

遠く大山から流れてくる下市川。
この流量なので、昔の旅行者は脛の辺りまで浸かって徒歩で渡ったのだろう。

沿道の柿。
秋がそこまで来ているようだ。

街道を歩く~大山町下甲~

撮影日 2025.8.24
camera Canon G7X MarkⅡ

畑の野菜。
大山黒ボクと言ったらブロッコリーのイメージだが、この野菜は?
う~ん、わからない。
まあ、野菜ですね(^_^;)

奥に見えるのは、下甲稲荷神社。
稲荷神社とは、穀物等、食物を司る神様。
農業の盛んな地域。農業の繁栄を願って建立されたものであることが伺える。

下甲地区内の路地。
綺麗で風情のある道が縦横に通されていた。

遠く西の空の下まで続く伯耆街道。

路傍には綺麗なお花。
名前が分からないので帰って調べた。
「ペチュニア」かな?

道端に小さな石塔が2塔。
何かの願いを込めて作られたのだろう。
道路も石塔も何もかも全ては人の精神の現れ。この石塔の形一つとってみても、世の中の事物に正解ってあるだろうか。僕には万人共通の正解って無いのだろうと思える。全てはそこにいる人の心の現れなのだから。強いて言えば、どんな事物もそこに現れた形が全て正解だと言える。
だから何一つ、自分を憂いたり悲観することはないのだ。全ての人が自信と思いやりを持って力強く歩いていけば良いのである。

街道を歩く~根雨散歩~

出雲街道の宿場町「根雨」。
松江藩の大名行列は、宿場町二部を出発し、間地峠を越えて、文字どおり”船場”の地において日野川を渡る。この街道、車尾、溝口に続いて三度目の日野川の渡しである。
今、この船場の当たりの流れを見ても岩が少なく流れが緩やかで、渡し場として良好な場所だったろうことが伺える。
その船場に隣接した町が根雨宿である。
根雨の名前は、大昔の干ばつの際に雨乞いの祈願をしたところ、雨が降り、稲穂の根を潤したことに由来するとのこと。
今でも、この地域では、毎年の祭りで傘踊りを行うそうであり、往古からの伝承が続いていることに感動する。
根雨の町は、この先の険阻な四十曲峠を控える重要な宿場町であり、かつては大名行列のほか、ウナギ街道とも呼ばれたとおりウナギ輸送の人足、大山牛馬市の輸送、出雲大社等の寺社参詣等の往来で大変賑わったとのことであり、この町を歩くと今でもその情景が浮かんでくるようである。また、歴史・文化の面では、大正デモクラシーの時代に活躍した評論家・翻訳家の生田長江氏のゆかりの地であり、また、たたら製鉄の鉄山師近藤家がある等、たくさんの歴史が詰まっている町である。

訪問日 2025.4~2025.8
camera Canon R6MarkⅡ

根雨宿の丁度真ん中辺りにあるお茶の緒形商店さん。
常連のお客さんに声をかけられて一緒にお茶をいただいた。おばさま方のパワーに圧倒されて縮こまる(^_^;)
健康体操の帰りに寄り集まる女性の方々、安来から時々来訪する俳人の方、遠方から定期的に訪れる根雨ファンの方、様々な常連さんが集まる根雨宿のサロンだ。

昔使われていた、高級茶「雁金」保管用の茶缶。
程よい錆の質感が時代を感じさせてくれる。

根雨の方々が信奉される根雨神社。神社が建つ森の麓に祗園橋がかかり、その下に流れるは板井原川。そして鮎釣りの人。
きっと昔からこのような文化と生活が融合した光景が連綿と続いているのに違いない。

石段の上に「ごんげんさんゆうえんち」と看板のある広場がある。
奥に祠がある他は、今は何もない更地になっている。
看板には「しょうわ57ねん8がつできる」と記載あり。
40年以上前。古き良き時代の子供たちの声が聞こえてくるようだ。

根雨の町から2㎞程、国道181号線を下った道沿いに、大正時代、日本の論壇の中心で活躍した翻訳家生田長江氏の生家跡がある。

訪問したのは梅雨の頃、ハルジオンの花々が記念碑を称えるように彩っていた。

これから先は険阻な四十曲峠が待ち受けている。
困難な道ほど乗り越えた先の景色がより輝かしく感じられるだろう。
人生は何度か自分の足で乗り越えなければならない坂道がある。
自分の心の声に従って、少しずつ前に進んでいこう。


街道を歩く~八頭町福本~

街道を歩く~日吉津村富吉~

街道を歩く~米子市赤井手~


小さな祠。
立派な黒色の瓦屋根の下でお地蔵さんが道行く人を見守ります。

街道を歩く~二部散歩~

本日の一枚

本陣と松

街道を歩く~岸本散歩~

今日の一枚

岸本オレンジロード

江島大橋散歩

今日の1枚

明日へと繋ぐ橋