投稿者「takashi」のアーカイブ

一冊の本
表紙の所在はわからない
頁は白や黒、赤や青、黄や緑
いろいろないろ
悲しいいろ
楽しいいろ
映えないいろ
鮮やかないろ
いろいろないろ
ばら色のページを破いてみる
紙飛行機をつくって
窓を開けてそっと飛ばしてみる
よく飛んだ
沈みゆく夕陽に向かって
よろよろしながら
それでもたくましく
見えなくなるまで
どこまでも

目覚めの連想

人間に備わる感覚、思考、感情
全てまとめて心である
世界はその心しかないとしたら
二次元も三次元も超次元もない
広さも奥行きもない
まして時空の連続もない
あるのは今ここだけの刹那滅の影像
あなたはそこに居るの?
このコップはここに在るの?
居るも在るも人間の観念
人間が考えさせられている概念
実在の確証もない
唯そのように認識させられているだけ超越者に
理解不能の世界
アインシュタインもスピノザも
理解したと思ったら次の問い
次の問いのパンドラの箱
問題だらけ
諦めることだ
諦めて唯清く生きることだ
難しく考える必要はない
人間に備わっている本能
本能に従って生きればいい
それも静かで善良な本能に
耳を澄ませば聞こえてくる
目を閉じれば感じられる
大きな流れを感じる取るのだ
そしてそれに身を委ねるのだ

今、自分が居ること

空があるように
海があるように
風を感じるように
犬が散歩しているように
朝ご飯を食べるように
上司に命令されるように
そのように見えている
帰宅してホッとする
そして眠りにつく
これらの日常を映し出す幻影が世界を形作る
そしてそれこそが、自分を形作っている

乾いている

乾いている
喉がカラッカラだ
飢えている
コップに穴が開いているんだろうか
満たしても満たしても無くなっていく
大好きなジュース
世界で一番大好きなジュース
もっと欲しい
グラスが大きすぎるの?ジュースが少ないの?
どちらでもいい
このグラスに綺麗で美味しくて香りの良い
そんな世界一のジュースを満たしてほしい

大晦日の虚無感

大晦日ぐらい気持ちの整理をしても良さそうだが
全てを無くしてしまったのだろうか
一向に頭に浮かんでこない
いや、思考にはあるが感情に働きかけてくるものがなにもないと言う感じだろうか
世の中のコロナ騒動も、原油の高騰も、経済対策の給付金も、気候変動による大雪も、自分を取り巻く人間模様も、家族も仕事も、来たる新年も何もかも
全てが真っ白になったようだ
全てが地に伏したようだ
台風一過の快晴のようだ
季節外れの凪のようだ
これが平穏と言うのだろうか
これが平和だと言うのだろうか
全てが波立たず、風が吹かず、このままただ日が過ぎ去るのが幸せなのだろうか
こびりついた怠惰がベッドの上で転がっている

冬の樹

今の姿が不満なら
全てを落として一遍枯れてみるがいい
芽も葉も花も何もかも
そうしてむき出しとなった木肌が素っ裸の自分
それで自分が何者かを知る
あとは心を開いて待つのだ時節と邂逅を
陽と雨を受け入れて地中から養分を吸い上げる
やがて、ふと気がついた頃、立派な樹に育っているだろう

冷たい雲

薄暗い雲が静かに拡がる
静寂といえばそうだが
不穏で意思を感じる冷たい雲
どうしてこうなったのか
自業自得
でも晴れぬことはない
時が経てば雲間から光が現れる
神様は許してくれる
これも必要だったんだ
課せられた人生を全うするために

親切

親切
それは気持ちがいい
それは心が安心する
それは他人が喜ぶ
それは自分が喜ぶ
それは神様から与えられた善良な心
善良な心が世界を平和にする
善良な心が自分を幸せにする

花は人間を認識しない
しかし人は花を認識する
花は生きることに必死だ
だから花にも自我はある
自分が生きるための純粋な自我
精一杯生きているだけの自我
それ故にこそ自信に満ちた色
それ故に美しい色とりどりの色
そんな色を認識するとき
人間の心も美しい

或る日の朝

朝、いつものとおり出勤の支度。
ルーティンを済ませ、カーディガンを羽織る。
その時、肘に白い糸くずが付いているのに気付く。
つまもうとするが取れない。
「あれ?」
違う。糸くずではなくて、カーディガンの繊維が綻んで下のカッターシャツの白地が浮き出ていたのだ。
がっかり。無念にも早速着替える。
次のカーディガンは?
大丈夫だ。そして出掛ける。
いつもの当たり前のルーティン。
それが上手くいかなかった。
ふと思う。
生活の殆どがルーティンで出来ているのだなと。
そのルーティンが当たり前に出来ているから、その土台の上に、幸せなり不幸なりなんなりと乗っかっているのだ。
朝起きて開けるカーテンのフックが折れないで居てくれる
電池が朝の髭剃りを動かしてくれる
トイレの水がいつもどおりに流れる
車のハンドルを真っ直ぐに保っていてくれる
遠い親戚が元気で居てくれる
大気を自由に吸うことができる
今日も地球の自転が傾いていてくれる
みんながみんな
自分の生活を支えてくれているんだなと。
仏教思想の根本的理念に「縁起」というのがある。
現代では、”縁起がいい”等と運がいいぐらいの意味にしか使われないが、元々は「因縁生起」の略語。因という元の要素が縁という作用で生起するということ。”自分”というものは、それ単体で成り立っているのではなく、様々な外的な要素や他人との関わり合いの中で構成されていると説いている。(厳密には世界を中とか外に分け隔てず自他一如だが)。それが縁起である。
カーディガンのほつれも、自分をこれまで支えてくれた証拠。
感謝し修復して今後も着ることにする。
でも自分は裁縫できないから、かみさんにお願いしよっと。
そこも自分を支える縁起、縁起。

帰り道にて

その道は雪が舞っていた

ふと思う
生まれてからこれまでに出会った人達
それは奇跡だと思う
街角ですれ違う見知らぬ人でさえも
数十億分の一の出会い
時間軸を踏まえると途方も無い数だろう

目の前を舞う雪の一粒
結晶となってたまたま自分の目の前に落ちてくる雪
大空の水蒸気が結晶して落ちてくる
その前は海の水?その前は山から染み出した水?
いや、人の涙かも知れない。

そう考えると「よく来たね」って思って愛着が湧いてくる
一瞬の出会い
その連続
諸行無常だ

全てが自分の人生に影響を与える奇跡
この世の全てが奇跡
唯、生きていることが奇跡

何でもないようだけど本当は素晴らしいこと
それを感じなきゃいけない

体一杯に全身で

人生これ修行なり

生きることは苦しいもの。
思えば幼少の時分から、ずっと、苦しいなあ、苦しいことばかりだなあって思ってきた。
思い出すだに、若い時の自分に「おー、よしよし」ってしたい気持ちなのである。

苦しみは無くならない。絶対に。それがこの世の掟。それはわかっている。だって、生老病死の苦しみは、誰もが生まれた時から課されているんだから。
神様は最初から人間をそういうものに作ってるんだから、苦しみなんて無くならない。そんなことはわかりきったこと。

この人間社会、どこを見渡してもうまく行かないことばかり。
大体に”上手くいく上手くいかない”という尺度が、人間の欲望を前提にしたものだから、やはり上手く行くはずがない。
満足することのない生き物である人間は、やはりどうやっても苦しみは無くならないのである。

ではどうすればよいか。
それには、苦しみが無くならないのだったら、その苦しむ主体である自分を無くそうとする。それが仏教である。
そしてそれを心の面から精緻な理論で体系化したのが唯識である。

人間は思考を持った生き物である。
苦しみが嫌ならば、まずはその思考を変えるべきである。
自分が信じられる思想や哲学に出会って、それを元にした物語を作るのである。
それだけではいけない。
その作り出した”物語”を日常生活で実践し昇華していかなければならない。
日常生活で実践し続けることで、少しずつ、今までの自分ではない自分が形成されていくのだ。

自分はまだその過程にある。
苦しいなって思いながら、その道を歩むことが修行だと思っている。
その先に成功があるのかどうかわからない。
ただ、それを信じてやっていくだけ。
それこそが信仰に生きるということである。 

補足として断っておくが、唯識だけが正解であるなんていう気はさらさらない。答えはなんだっていい。
人それぞれの”物語”があっていいのである。
自分の場合はそれが唯識だったということ。
要は、自分が納得して安心しているかどうかなのである。
キリスト教でも仏教でも儒教でも神道でも、なんだっていいのである。

泣きたくなったら浅田次郎

浅田次郎の「天国までの百マイル」を読み終えて、いつも思うけど、浅田次郎の小説は涙が出る。
「40を過ぎたいい大人が」とか「気持ち悪い」とか思わないでいただきたい。本当に感動するのである。
まさに泣きたい時は、浅田次郎の小説を手にとって見るといい。

「天国までの百マイル」は、人生には何が本当に大切で、何が感動を与えてくれて、何をなすべきなのかを教えてくれる作品。
会社が倒産し妻子に逃げられて落ちぶれた人生を歩む主人公の中年男が、一人、心臓病の母親を乗せて天才心臓外科医が居る病院まで車を走らせるというストーリー。
母親の命を顧みない兄弟との葛藤、元妻への仕送り、愛してもいない女に身を寄せる生活、旧友弁護士からの冷たい対応等、いろんな困難を乗り越えて、自分がなすべきことに目覚める。
一人の男が落ちぶれてから再び立ち上がる様を描いたものだが、自分には、その男を献身的な無償の愛で支える「マリ」に一番心を惹かれた。
他の小説でも思うことだが、浅田次郎は、性別の垣根を乗り越えて、驚くほど女性の心情を描くことに長けている。「なんで女性でも無いのにこんなに女性目線の気持ちを描けるのだろう」と思うのである。
この小説も主人公と同棲する愛していない”愛人”である「マリ」無くして、この作品に大きな感動を纏わせることはできなだろう。
現に、自分が読んで感動し涙が出たのは、主人公に対してではなく、その主人公を支え、最終的に男の真の愛を得た上で、男の幸せを願ってその人生から身を引いていくマリの姿についてである。
そのような無償の愛について涙が止まらなくなるのである(「40を過ぎたいい大人が」とか「気持ち悪い」と思わないでいただきたい)。

皆さんも、是非読んでみてはいかが?

浅田作品の他には、「聖夜の肖像」も胸をえぐられるような切ない感動を覚える。

座禅のすゝめ

人間社会の秩序や安全の乱れが加速している

この世界が実在するものか、独我論的な自分だけの世界なのかは、自分にはわからない。
というか誰にもわからない。

ただ、今のこの状況は良くないと思うし、神様からこの状況を課されているようにも感じる。
仏教思想の”唯識”には、善い行いをしたり、善い言葉を使ったり、善い心を持つと、それが根本心である”阿頼耶識”に植え付けられるという思想がある。
「身口意の業」である。
植え付けられた業は、将来、その阿頼耶識から芽吹き、芽吹いた世界が良いものになる。

この世界が実在するものか、独我論的な自分だけの世界なのか、自分にはわからない。

唯、自分が出来る善い行いに勤め、穏やかな心を持って毎日を生活しようと思う。
そうすれば、自分が目の当たりにしている世界もきっとより善いものになってくると信じている。

とりあえず、座禅は、今年に入ってから毎日欠かさずにやっているから、今日も頑張ろーっと(^^♪

オミクロンの拡大から思うこと

日本でもオミクロン株の感染拡大が始まった
これによって、保健所や病院は慌ただしくなり、飲食店や宿泊施設からは人が居なくなる。
なるべく早くピークアウトを迎え、そして終息して欲しい。

昨今、地震や豪雪、台風の大型化による洪水や竜巻の発生等、自然災害が多発していて、人間が呼びかけるSDGsの潮流もなんだか心もとないものに思える。

カーボンニュートラルの加速化、DX時代の到来によるオンライン化及びシステム化、ワーケーションの導入、マスクのスタンダード化等々、人間の生活様式は急速に変化している。

文明が発達し便利や効率を手に入れ、我慢をすることが少なくなり、反対に快楽を得ることが容易となったこの社会は、相応の代償として自然からの報復があるのだろうかと考えてしまう。
それはそれでバランスが取れているのかとも思うし、人間は結局死ぬのだからと腹を括れば何が来ても同じと思わぬでもない。

だから人生は結局自分の心の問題なのだ。

平穏や平和を求めても、次から次にやってくる問題。
生きている限り決して止むことはない。決して。
僧侶の南直哉さんが言っているが、悩みを解決するように生きるのではなく、悩みを抱えて生きる以外にない。

”悩み”を”苦しみ”に言い換えれば、どこまで行っても苦しみがつきまとうこの世の中で生きていくためには、自分に課せられた苦しみを抱えてやり過ごしていく以外にない。

ただ、その苦しみが、善良な超越者から課せられたものであることを信じる。

花回廊にて

夜のとっとり花回廊を鑑賞した。
イルミネーションに群がって光の中を行き交う人々。
手を繋いで歩くカップル、追いかけっこをする親子、友達同士で楽しそうに歩く二人、フードコートでラーメンをすする家族、園内列車の待ち合いに並ぶ行列、みんながみんな、それぞれの快楽を求めて、そして快楽によって動いている。
園内が多種多様な”色”に包まれて見えるのは、あながちイルミネーションの光ばかりが理由ではないだろう。
自分は自分の世界だけで鑑賞すればよいのだが、雑多な”色”を目の当たりにするに連れて気持ちが沈むのは、昔からの癖だろうと思う。
そして、カラフルな光よりも、園の外れの薄暗い闇夜にポツンと佇む一本の木に心を奪われるのである。

爪が剥がれちゃった

おぞましいタイトルだが、言葉のとおりなのである。
何しろ、”全剥がれ”は初めての経験だ。
家のサッシの下部分に足を踏み出したら、爪が引っかかってバリっと剥がれたのだ。
「痛っ~!」
恐る恐る指を見ると、爪が剥がれて中の肉が剝き出しになっているのである。(笑)
不思議と痛みは少ないが、とにかく自分の足を見て気持ちが悪い。
翌日病院に行こうとしたが、そう言えば爪剥がれって何科を受診するのかなと思い、ネットで調べると、「皮膚科」か「形成外科」なる診療科とのこと。
ひとまず、先週皮膚の湿疹で受診したばかりの行きつけの皮膚科を受診することに。(皮膚に爪にいろいろ大変な人だと思われただろう・・・)
先生の見立てでは、剥がれた爪がひとまず皮膚にくっついてるので、無理に剝がさずに下から膜が張ったらとりましょうとのこと。ああよかった。こんな時は妄想が膨らんでどんな恐ろしい処置をされるのかと心配だったのだ。
「ああ、これは化膿してもうダメですね。麻酔して指を切断しましょう。」なんて言われたらどうしようとか(笑)←馬鹿々々しい。
それにしても、「人生いろいろ」、「一寸先は闇」だなあと思った今日この頃だった。

初詣

入口から本殿を望む

神田神社に初詣。
昨年までのお守りを神社に預けてからお参り。本殿の賽銭箱にお金を投げ入れてから二礼二拍手一礼。
本殿以外にもお神輿さんやお稲荷さんや何やら祠のようなものの数々に参拝。
「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」、「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」、「チャラン、ペコペコ、パンパン、ペコリ」をひたすら繰り返す。
これは誰に何をお願いしているんだろう?そして、私は誰だろう?等と間違っても思ってはいけない。ひたすら無心で頑張るのである。(^_^;)

力強い馬の銅像
社務所前

唯識思想から見る世界

遠くインドの地から三蔵法師が持ち帰り世に広めた「唯識思想」。やがてこの思想は奈良時代に日本に伝えられ、大乗仏教の基本思想として今日まで受け継がれています。