小説家松本薫さんの「火口に立つ。」を読んだ。
その作品で描かれているのは、地元鳥取県日野町出身の生田長江氏の人生だ。
唐突だが、「大正デモクラシー」という言葉は誰しもが学校の歴史の授業で聞いたことのある言葉だと思う。
この大正時代は、一般の民衆が、誰もが政治への参加が可能になるような普通選挙制度や言論の自由を要求したり、過酷な労務を課される労働者が資本家に待遇改善を求めたり、女性が社会参加への声を上げたりして、これまでの既存の体制に立ち向かう大きなうねりがあった。いわば、日本中が政治、社会及び文化等の面で人々のエネルギーが大きく沸騰した時代だったのだ。
私自身知らなかったのだが、このような時代に、日本の政治、社会及び文化の分野で評論家・翻訳家・小説家等としてその中核に居て活躍した人物が生田長江氏なのである。
この小説は、その生田長江氏と同じ故郷日野町から家を飛び出して東京に出て、長江氏の家で女中として働く架空の人物「南原律」の目を通して、長江氏の人生を追っていくものである(この設定が何とも素晴らしい)。
言論の自由がないとは言ってもそれは現代のコンプライアンスで制限された自由の無さとは異質なもので、国や権利に対する言論は封じられていても、ハラスメントなんていう概念が無かった時代。個人間の言論は比較的自由で、それは生の人間同士のぶつかり合いであり、人々はそういう意味でも闘っていたのだ。
長江氏も、マルクスの「資本論」の翻訳を手掛けている時に、ライバル翻訳家から差別的な誹謗中傷を浴びせられ、その発刊を断念せざるを得ない状況となっている。(現代であれば、そのライバル翻訳家は周辺から一斉に叩かれて一巻の終わりだろう。)
そのような時代に、南原律自身もその時代の渦中に飛び込んで社会にもまれながらも逞しく生きていく。この小説は、南原律の共感や反発、嬉しさや戸惑い、その時々の考え方や感情が緻密にどっしりと描かれており、知らず知らず感情移入していき、私も南原律の気持ちがホントにわかるのである。(念のため私は男である(笑))
この小説を一気に読み終えてしまったのも小説家松本薫さんの力量。脱帽です。
話の本線から少し横道に逸れるが、この小説の中に出てきた言葉で自分が惹かれた言葉があるので紹介したい。
それは、夏目漱石の「自分の鶴嘴(つるはし)を持つこと」である。
この小説のテーマの一つでもあると思われるのだが、既存の体制を飛び出して自分自身で道を切り開き、現状を乗り越え、最終的に自分の能力を発揮して自己実現し社会に貢献する。
それは本当に強い鶴嘴を持たなければいけないし、素手では何もできない。
自分の鶴嘴を手にして、少しずつでも目の前の岩を砕いていく。
『火口に立つ。』。
それは、サラリーマンという組織の一員の立場から足を洗った自分にとって、自分自身のパーソナリティを確立し自分でその道を切り開いていかなければいけない今の自分が、主人公の南原律に自然にオーバーラップしていき、その激動の人生の一挙手一投足に共感せずにはいられない小説だったのである。
