空は無機質な色で覆われている
でもよく見るといろんな色が混ざっているな
トンボもやってくる
白は他の存在を引き立たせる
見上げる屋根もそれを家たらしめる
電柱も
山も
物の輪郭を作る
物を存在させる
そんな存在の仕方もあるのかなと思う
そういうものに成れればいいなと思う

唯識思想においては、世界の認識作用を「四分説」という考え方で説明している。
心(=識)が、①見分(見るもの)、②相分(見られるもの)、③自証分(見たものを認識するもの)、④証自性分(見た自分を自覚するもの)の四つの領域に分かれる。
一方で、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』においては、人間には、「私は考える」という能力である「純粋統覚」があるから、感性で得た直感や知性で得た概念を総合することが可能となり、世界を認識することができるのだと言っている。
カントの言う純粋統覚が、四分説でいう自証分の段階にあるのか、証自証分の段階にあるのか、この辺りの詳細は、私は専門的な学者ではないからわからないし、そもそもそのような考察があるかどうかは知らない。
ただ、目の前にあるものを認識し、その認識は私の認識として自覚する自分があると言っている点は共通しているように思える。
そしてこの認識は、純粋理性批判では、客観的に存在する世界(モノ自体)をアプリオリ(先天的)に備わる悟性(知性)のカテゴリーで認識し、それは全ての人間に共通するものだとしている。
一方、唯識思想では、人人唯識、つまり、一人一人がそれぞれの異なる世界を認識しているというのだ。この考え方は、ヒューム等のイギリス経験論に近い考え方だろう。
いずれにしても、「私は考える」という一歩後ろから俯瞰している私があることは確かであるように思えるし、また、その「私は考える」が他でもない自分自身にも備わっているということ自体に驚き感動し、”ある”という不思議さ又はその神秘性を思うとき、スピノザの言う神への畏敬と感謝を感じずにはいられないのである。
