仏教の三法印の一つ”無我”。
心臓が動いている、自分のこの意識がある。この存在は何か。
全ては様々な時間的及び空間的要素の仮和合である。だから無我なのだ。理屈としては理解できる。
ただそれは、物質(=色)的な側面で見た観点であって、この自意識も、縁起ゆえに無我であると言われても少ししっくりこない。だから、デカルトの”我思う故に我あり”なんだろう。
形而上的な答えは人間には決してわからないと思うのだが、今の時点で自分が思うのは、結局は素直に我(=自分)があることを認めて受け入れて(苦しみの原因である自分を認めるのはそれなりに辛いことではあるが)。そして、その上で、この世界とは何か、自分はどう生きるかを追求し、自分なりの答えを見つけてそれにしがみついて、生きて、そして死んでいく。それしか出来ないのだろうと思う。
