生きることは苦しいもの。
思えば幼少の時分から、ずっと、苦しいなあ、苦しいことばかりだなあって思ってきた。
思い出すだに、若い時の自分に「おー、よしよし」ってしたい気持ちなのである。
苦しみは無くならない。絶対に。それがこの世の掟。それはわかっている。だって、生老病死の苦しみは、誰もが生まれた時から課されているんだから。
神様は最初から人間をそういうものに作ってるんだから、苦しみなんて無くならない。そんなことはわかりきったこと。
この人間社会、どこを見渡してもうまく行かないことばかり。
大体に”上手くいく上手くいかない”という尺度が、人間の欲望を前提にしたものだから、やはり上手く行くはずがない。
満足することのない生き物である人間は、やはりどうやっても苦しみは無くならないのである。
ではどうすればよいか。
それには、苦しみが無くならないのだったら、その苦しむ主体である自分を無くそうとする。それが仏教である。
そしてそれを心の面から精緻な理論で体系化したのが唯識である。
人間は思考を持った生き物である。
苦しみが嫌ならば、まずはその思考を変えるべきである。
自分が信じられる思想や哲学に出会って、それを元にした物語を作るのである。
それだけではいけない。
その作り出した”物語”を日常生活で実践し昇華していかなければならない。
日常生活で実践し続けることで、少しずつ、今までの自分ではない自分が形成されていくのだ。
自分はまだその過程にある。
苦しいなって思いながら、その道を歩むことが修行だと思っている。
その先に成功があるのかどうかわからない。
ただ、それを信じてやっていくだけ。
それこそが信仰に生きるということである。
補足として断っておくが、唯識だけが正解であるなんていう気はさらさらない。答えはなんだっていい。
人それぞれの”物語”があっていいのである。
自分の場合はそれが唯識だったということ。
要は、自分が納得して安心しているかどうかなのである。
キリスト教でも仏教でも儒教でも神道でも、なんだっていいのである。















